霊峰黒髮山

霊峰 黒髮山

頂上の天童岩の霊窟には上宮があり、山全体が霊山として崇められてきました。 中世以降は山岳修験の活動拠点として多くの山伏が往来し、室町時代までは七合目より上は女人禁制の地とされていました。

霊山としての畏れから、木々の伐採や植物の採掘がタブーとされてきたため、かえって自然が保護され、 現在では約3,000種類の植物が生育しているといわれています。標高は518mながら、高山植物も自生しており、 一部には縄文時代から続く照葉樹林の原生林も残ります。

この原生林は文明の進展とともに失われ、佐賀県内では黒髮山と武雄の御船山(武雄神社背後の山)にしか残っていない貴重な自然遺産です。

中腹にある「乳待坊(ちまちぼう)」と呼ばれる場所には、巨岩・大岩がそそり立ち、雄大で風光明媚な景観が広がります。 中でも「雌岩・雄岩(めいわ・おいわ)」の間から万物が生まれたという伝承があり、有名な大蛇退治伝説も語り継がれています。

信仰と伝説に彩られ、自然に恵まれた眺望の良さから、昭和5年の佐賀新聞社アンケートによる 「名所旧跡人気番付」で第1位となり、昭和12年には佐賀県立自然公園第1号に指定されました。

戦後には森林文化協会・朝日新聞社による「21世紀に残したい日本の自然百選」(昭和58年)に選ばれ、 また登山家・岩崎元郎氏が選定した「新・日本百名山」において、佐賀県内で唯一の山として選ばれました(平成16年)。

近年では「日本百低山」にも選ばれ、登山や観光の名所として広く親しまれています。

大蛇退治伝説

永万元年(1165年。ほかに久寿元年など複数の説あり)、有田郷白川の池に大蛇が棲みついた。七俣の角を持ち、黒雲に乗って黒髪山に飛行し、火を吐くこの大蛇のため、命を失う者も出た。里人は稲を刈ることもできず、領主の後藤高宗に大蛇退治を懇願した。

しかし高宗が手勢を引き連れて向かうと、大蛇は姿をくらまし、退治できなかった。高宗が朝廷に相談すると、鎮西八郎為朝と協力するよう勅命が下った。為朝や家来一同大勢で策を練っていると、誰とも知れぬ者が「美女を囮に大蛇を誘き寄せるが良かろう」と申し出て姿を消した。

これは黒髪の神の啓示と喜んだ一同は、生贄となる美女を募り、恩賞は望み通りと高札を出した。

西川登の高瀬に、万寿姫という16歳の娘がいた。父・松尾弾正を亡くし、母と弟の小太郎を苦労して養っていた万寿姫はこの高札を見て、お家再興のためと自ら申し出た。白川の池には高さ10メートルもの水棚が造られ、万寿姫がその上に座した。

間もなく腥い風が吹き、大蛇が姿を現した。領主・高宗が三人張りの弓に十三束の矢を番えて放つと、見事に大蛇の眉間を捉え、血煙が舞った。しかしこれで大蛇は火の如く怒り、万寿姫をひと呑みにしようと立ち上がった。

続いて八郎為朝が八人張りの重藤の弓に十五束八寸口の矢を番えて放った。この矢が大蛇の右眼を貫き、怯んだところを将兵が一斉に雨霰と矢を放った。この猛攻撃に、さしもの大蛇も遂に逃げ出すこととなった。

高宗らが追い立てると、竜門へと逃げる大蛇は谷底へと落ちていった。

ところで梅野村に行慈坊(海正坊とも)という座頭がおり、ちょうどこの時、竜門の谷を通りかかっていた。岩頭から転がり落ちてきた大蛇に驚いた海正坊は、懐剣を抜き、「ここが急所の喉であろう」と突き立てた。これがとどめとなり、大蛇は息絶えた。

大蛇退治祈願の願成就にと、黒髪神社では流鏑馬の奉納がなされ、今に続いている。

(『武雄市史』下巻より加筆修正)